なぜ、長崎に原爆ドームが無いのか
なぜ、長崎に原爆ドームがないのか
人類史上初の原爆が落とされた広島の爆心地には、産業奨励館(原爆ドーム)があった。その三日後に長崎に原爆が落とされた。その爆心地には、アジア最大のキリスト寺院の浦上天主堂があった。戦後、広島の産業奨励館は財政的な問題から取り壊しが決まっていたが、長崎では、浦上天主堂を保存する機運が高まっていた。
しかし、広島の産業奨励館は取り壊されずに「原爆ドーム」として保存された。しかし、長崎の浦上天主堂は取り壊されてしまった。ここに、「結果が真逆となった歴史の真実」がある。
江戸時代に、隠れキリシタンとして弾圧された過去を持つ日本のキリスト信徒が建てたアジア最大の二十五メートルの高さを誇る東洋一の教会を、なぜアメリカは破壊したのか、そして、なぜ取り壊されたのか。
「なぜ、長崎に原爆ドームが無いのか」を問いながら、取材を進めた気鋭のジャーナリストがいる。そこに、歴史を隠匿する見えない力があったのか、その真実を追究するジャーナリストの取材は凄まじい。
高瀬毅が書いた『ナガサキ 消えたもう一つの「原爆ドーム」』(平凡社)は、私たちに『廻る命』の「正しい見方・考え方」を知らせてくれる渾身の一冊だ。
高瀬は、「広島に原爆ドームがあるのに、どうして長崎に浦上天主堂の廃墟は残っていないのか」を解明するために、国内だけでなくアメリカにも取材に出かける。
高瀬毅は、1955年に長崎に生まれた原爆二世である。放送記者、ディレクターを経て、82年にはラジオドキュメンタリー『通り魔の恐怖』で日本民間放送連盟賞最優秀賞や放送文化基金賞奨励賞を受賞したジャーナリストである。現在は、フリーとして、雑誌などの執筆やラジオ・テレビのナビゲーターをしている。
1945年8月6日、アメリカのB-29爆撃機「エノラ・ゲイ」は、広島の相生橋を投下目標として原子爆弾を投下した。その爆心地にあった原爆ドームはほぼ全壊したが、ドーム部分だけは枠組みと外壁を中心に残った。
戦後、広島市は「保存には経済的に負担がかかる」などの理由で、原爆ドーム保存に消極的だった。しかし、1960年に被爆が原因と思われる急性白血病で亡くなった女子高校生が「あの痛々しい産業奨励館だけが、いつまでも、おそるべき原爆のことを後世に訴えかけてくれるだろう」と記した日記が発表され、市民の保存運動が盛んになり、1966年広島市議会は永久保存することを決議した。
原爆ドームは、1996年に世界遺産に登録された。世界遺産には、負の遺産と呼ばれるものがある。ナチス・ドイツがユダヤ人を虐殺したポーランドのアウシュヴィッツ強制収容所、アフリカ・セネガル・ゴレ島の奴隷貿易拠点、幾重の戦火を受けたアフガニスタンのバーミヤン渓谷などである。
負の世界遺産に、広島の原爆ドームも入っている。世界各国のさまざまな人たちが原爆ドームを訪ねているが、長崎を訪問する人は少ない。
広島に原爆を落としたアメリカの爆撃機B29の名は「エノラ・ゲイ」である。日本人なら多くの人が知っている名前だ。では、長崎に原爆を落とした爆撃機の名前を私たちは答えられるだろうか。そこに、長崎が原爆とのつながりが薄いと思われる背景がある。
爆撃機の名前は、「ボックスカー」。「ボックスカー」は原爆搭載機として、当初は福岡県の小倉を目標としてテニアン島を発進した。しかし、爆撃進入に3回失敗したことで、第二目標である長崎市に進路が変更された。
「ボックスカー」の予備タンクの燃料ポンプは故障し、燃料にも余裕がなかった。だから長崎への爆撃は一回しかチャンスがなかった。結果、雲の切れ目から見えた長崎・浦上に原爆を落とした。その地は、本来の投下予定地点より北へ3.4kmの地点だった。この攻撃で約7万4千人が死亡し、建物の約36%が全焼または全半壊した。
本来の投下目標は、人口密集市街地の眼鏡橋が架かる中島川付近だった。長崎市は、市街地と浦上地区は山でさえぎられているから、市街地の被害は少なかった。
高瀬は取材を続ける。
市長の諮問機関であった原爆資料保存院会は「保存」という結論を出していたし、市長も同意していたが、ある時からその「保存」の考えが「撤去」へ180度転換する。
市長が「撤去」の姿勢を鮮明にしたあと、市議会で廃墟の保存を強く訴えた岩口議員の言葉がある。
「これを単に長崎の観光地というけちな考えで残そうとするのではなく、全人類の二十世紀の十字架として、キリストのあの偶像が犠牲のシンボルであるならば──二千年前の犠牲のシンボルであるならば、私はこの廃墟の瓦壁は二十世紀の戦争の愚かさを表彰する犠牲の瓦壁である、十字架であるとそういう意味において、唯物的な考えから申せば、市長がさきほども申されましたように、そう大して残すほどのことではありませんが。しかし、精神的に長崎を訪れる各国の人たちが、一瞬襟を正して原爆の過去を思うその峻厳な気持を尊ぶ原爆の資料だと信じております」
しかし、その願いは果たされなかった。
高瀬は取材していく中で、この他にも教会を司る当時の山口司教が廃墟の保存を望まなかった、という事実に突き当たる。高瀬はこの裏に、原爆の遺産保存を望まないアメリカの戦略があると考えた。
市長がまだ天主堂の保存に前向きだった1955年に、長崎市にアメリカ・ミネソタ州セントポール市から姉妹都市提携の話しが持ち込まれた。これは、戦後荒廃している日本では稀なことだった。
翌年、市長は渡米してセントポール市だけでなく全米各地を40日間かけて回った。その中に、国務省関係者などの歓迎があったという。往復の飛行機代は負担したらしいが、その他の経費はアメリカが用意したと考えられる。米国から帰国した市長は、渡米前とは明らかに態度が変わっていた。
1958年の議会で、「浦上天主堂の残骸が原爆の悲惨を物語る資料としては適切にあらずと。平和を守るために在置する必要はないと、これが私の考え方でございます」と市長は答弁する。
カトリック教会長崎司教区代表の山口司教も、教会再建の資金集めのために米国を訪問していた。
山口司教は「天主堂はともかく同じ場所に再建したい(廃墟は破棄すべき)」とアメリカの新聞に語っている。
高瀬は、アメリカでの山口司教の発言や教会関係者への取材から、廃墟を撤去することが、アメリカ側の資金提供の条件であったらしいことを浮かび上がらせていく。
浦上天主堂の歴史を、ここで再確認しておく必要がある。
1864年(元治元年)、長崎の南山手フランス居留地内にフランスの資金で大浦天主堂が建てられた。
1865年(慶応元年)3月、主任司祭であったベルナール・プティジャン神父のところに、 浦上村住民数名が訪れた。当時52歳の女性、イザベリナと呼ばれたゆりは神父に近づき、「ワレラノムネ アナタノムネトオナジ(私たちはキリスト教徒です)」とささやいた。そして、聖母マリアの像を見て祈りをささげた。彼らは、キリスト教の典礼暦を元に「カナシミセツ(四旬節)」を守る生活をおくっていた。これが、世界を驚かせた400年の鎖国の中でも息づいていた「日本のキリスト信徒の発見」である。
五島、天草、筑後などに暮らすキリシタンの指導者も、神父の元をひそかに訪れた。神父から指導を受けた隠れキリシタンたちは、村に帰り神父の教えを広めた。しかしその後、その存在が知られるようになり彼らは弾圧され投獄されていく。
1873年(明治6年)、日本政府はキリスト教禁制を撤廃した。弾圧された信徒は釈放されたが、3394名のうち662名が命を落としていた。
生き残った信徒たちは、1895年(明治28年)浦上の地に天主堂の再建を始めた。1925年(大正14年)まで30年もかけて、浦上川の峡谷に25メートルの高さを誇る東洋一の教会、聖マリア教会を建立した。
この大聖堂をアメリカにより破壊された長崎は、アメリカの都市と姉妹都市となった。これを推進したのが、日本でのパブリック・ディプロマシーを担当していた米国広報・文化交流庁(USIA=United States Information Agency)だった。
米国広報・文化交流庁のパブリック・ディプロマシーの定義は、「外国の市民を理解し、情報を与え、影響を与えること、米国の市民や組織との海外のカウンターパートナーとの対話を促進することを通じて米国の国益と安全保障を高めようとする」とある。
しかし、アメリカ国内でのパブリック・ディプロマシーは法律で禁止されていた。
『パブリック・ディプロマシー「世論の時代」の外交戦略 』(PHP研究所)によれば、1948年にアメリカ議会で議決されたスミス・ムント法(連邦情報・教育交流法)は、アメリカ国外でのパブリック・ディプロマシーは許されるが、アメリカ国内で自国民に対しそれを行うことは禁止された。
連邦政府の国際文化交流機関が自らの活動を国民に広報することは、自国民に対する説明責任を果たす行為とはみなされず、税金を使った世論操作と理解されたからだ。
アメリカの公文書館には関係資料が多く残されている。GHQ(連合国軍総司令部)は、日本人の原爆への反感を抑えようと新聞などでの原爆記事を禁止した。
長崎の原爆をテーマにした「長崎の鐘」はベストセラーになったが、被爆から2年後の1946年に完成していた。1949年1月『マニラの悲劇』をその本の巻末に掲載することを条件に、GHQから日比谷出版社からの出版が許された。
『マニラの悲劇』は、アメリカが調査した日本軍のマニラ残虐行為の証言集である。本の巻末といいながら、『長崎の鐘』は160ページ、『マニラの悲劇』159ページだった。
そこに、戦争の被害者と加害者の関係は五分五分であるとイメージさせる、パブリック・ディプロマシーがあったのではないだろうかと想像できる。
歴史の中には、「正しい見方・考え方」を隠匿されたために、知られていない事実が多くある。しかし、ジャーナリストたちの取材で、隠された過去を知ることで、また新しい真実が見えてくる。
長崎の原爆問題には、差別の歴史も関係していた。
原爆投下時の浦上には、1万2千人のカトリック信徒が暮らしていたが、8千5百人が命を落とした。天主堂から約1キロ南には、被差別部落民1千3百人が暮らしていた。ここでも430人が亡くなった。
長崎市街地から離れているこの地では、江戸時代のキリスト禁教令以後、部落民はキリシタン監視の役割を担わされた。幕末の「浦上四番崩れ」では、ここの部落民が信徒弾圧の先頭になった。この地の者は、歴史の中で差別を受けていたが、差別された者同士が、互いに憎しみ敵対することを繰り返していた。
井上光晴の『地の群れ』(河出文庫)は、こうした差別に肉薄する作品である。井上は、被爆者、部落民、在日朝鮮人など差別される者同士が互いを差別しあう日本社会の裏側を書いた。
原爆投下後に、それらの差別意識がまた新たな差別を生むこととなった。原爆被災者を差別する空気が生まれたからだ。
長崎市民の一部には、「お諏訪さん(諏訪神社)が市街地を守ってくれた。浦上に原爆が落ちたのは、耶蘇(やそ)(キリスト信者)への天罰だ」と公然と話す者もいた。そこに、江戸時代から続いてきたキリシタン迫害での常識化された差別意識があった。
西洋のキリスト教と日本の神道の宗教的異なり、そして、部落差別の問題は、時代が変わってもなかなか氷塊はしない。長崎の反原爆運動が広島ほどの熱気を帯びないのも、こうした背景があることは否定できない事実であろう。
世界のキリスト教の信徒は、長崎の天主堂が原爆で破壊されたことを、聖母被昇天の大祝日の告解準備のために、西田三郎主任司祭と玉屋房吉助任司祭が告解場にいたことを、二人の神父と数十人の信者が原爆で即死したことをあまり知らない。
世界のキリスト教徒は地球の総人口の3分の1、約20億人もいる。浦上のクリスチャンたちが原爆の悲劇を伝えることは、世界に大きな影響を与えるはずだが、それをしない、させない歴史の重みがそこにある。
アメリカのオバマ大統領は、「米国は、核兵器を使った世界で唯一の核大国として行動する道義的な責務がある」と語り核の無い世界を標榜した。
核兵器の廃絶を訴えるオバマは、広島、長崎の被爆地訪問に当初から強い関心を示し、09年11月の初訪日の際にも訪問案が浮上したが実現しなかった。オバマは「広島と長崎を将来訪れることができたら非常に名誉なこと。私には非常に意味があることだ」と日米首脳会談後の会見で語った。
だが、米国内には「原爆投下は戦争終結のためやむを得なかった」との声も根強い。大統領の被爆地訪問は退役軍人など世論からの激しい反発が予想される。原爆投下を必然といいながら、その地を訪れることに反発をするその人たちの心の中には、原爆投下に対して善と悪のふたつの心があることが想像できる。原爆投下が真の正当な行為と信じるなら、戦後60年を過ぎているいま、その原爆の地に佇むことができるからだ。
広島の原爆ドームを個人的に訪れるアメリカ人は多い。そこに、原爆投下を正当とする世論と個人のギャップがあると思うのは、私だけではあるまい。
オバマが広島や長崎に訪ねるとき、「フットボール」という名前の鞄が同行する。「フットボール」には、大統領の緊急指令や作戦計画が入っている。この鞄から、核爆弾の発射命令が出される。オバマが、広島や長崎を訪ねる時、核の発射ボタンが共に来る。被爆の地に核のボタンが同行する歴史の皮肉がここにある。
この本では何度も、「原因と『結果』の因果の法則」という言葉が出てくる。その「結果」に、宗教、政治、差別、パブリック・ディプロマシーの影響があるとき、その情報をどのように咀嚼するかは私たちの責任となる。
浦上天主堂へのパブリック・ディプロマシーをあらためて検証するとこうなる。
アメリカは「アジア最大のキリスト寺院・浦上天主堂の再建を手伝った」と加害者の立場を離れて善意の主張ができる。しかし、被害者から見れば、「アジア最大のキリスト教寺院を原爆で破壊した愚かな行為を、アメリカは歴史から抹殺した」となる。
そこから、当時のアメリカ政府が、浦上天主堂を原爆で破壊してしまったことに苦悩していた状況が想像できる。
歴史は、勝者や権力者を中心に記録されていく。偽りの歴史の中にも、「原因と結果の因果の法則」がやっぱりあるのだ。
長崎市のホームページ内に、セントポール市との姉妹都市「締結のきっかけ」という記述がある。
「ニューヨークの日本国連協会代表が、原爆被災から復興し平和都市への道を歩んでいた長崎市とセントポール市の提携を斡旋。その後国連事務局が両市に勧誘状を出した。日米初の姉妹都市提携である」と、
それは簡単に書かれている。
人類史上初の原爆が落とされた広島の爆心地には、産業奨励館(原爆ドーム)があった。その三日後に長崎に原爆が落とされた。その爆心地には、アジア最大のキリスト寺院の浦上天主堂があった。戦後、広島の産業奨励館は財政的な問題から取り壊しが決まっていたが、長崎では、浦上天主堂を保存する機運が高まっていた。
しかし、広島の産業奨励館は取り壊されずに「原爆ドーム」として保存された。しかし、長崎の浦上天主堂は取り壊されてしまった。ここに、「結果が真逆となった歴史の真実」がある。
江戸時代に、隠れキリシタンとして弾圧された過去を持つ日本のキリスト信徒が建てたアジア最大の二十五メートルの高さを誇る東洋一の教会を、なぜアメリカは破壊したのか、そして、なぜ取り壊されたのか。
「なぜ、長崎に原爆ドームが無いのか」を問いながら、取材を進めた気鋭のジャーナリストがいる。そこに、歴史を隠匿する見えない力があったのか、その真実を追究するジャーナリストの取材は凄まじい。
高瀬毅が書いた『ナガサキ 消えたもう一つの「原爆ドーム」』(平凡社)は、私たちに『廻る命』の「正しい見方・考え方」を知らせてくれる渾身の一冊だ。
高瀬は、「広島に原爆ドームがあるのに、どうして長崎に浦上天主堂の廃墟は残っていないのか」を解明するために、国内だけでなくアメリカにも取材に出かける。
高瀬毅は、1955年に長崎に生まれた原爆二世である。放送記者、ディレクターを経て、82年にはラジオドキュメンタリー『通り魔の恐怖』で日本民間放送連盟賞最優秀賞や放送文化基金賞奨励賞を受賞したジャーナリストである。現在は、フリーとして、雑誌などの執筆やラジオ・テレビのナビゲーターをしている。
1945年8月6日、アメリカのB-29爆撃機「エノラ・ゲイ」は、広島の相生橋を投下目標として原子爆弾を投下した。その爆心地にあった原爆ドームはほぼ全壊したが、ドーム部分だけは枠組みと外壁を中心に残った。
戦後、広島市は「保存には経済的に負担がかかる」などの理由で、原爆ドーム保存に消極的だった。しかし、1960年に被爆が原因と思われる急性白血病で亡くなった女子高校生が「あの痛々しい産業奨励館だけが、いつまでも、おそるべき原爆のことを後世に訴えかけてくれるだろう」と記した日記が発表され、市民の保存運動が盛んになり、1966年広島市議会は永久保存することを決議した。
原爆ドームは、1996年に世界遺産に登録された。世界遺産には、負の遺産と呼ばれるものがある。ナチス・ドイツがユダヤ人を虐殺したポーランドのアウシュヴィッツ強制収容所、アフリカ・セネガル・ゴレ島の奴隷貿易拠点、幾重の戦火を受けたアフガニスタンのバーミヤン渓谷などである。
負の世界遺産に、広島の原爆ドームも入っている。世界各国のさまざまな人たちが原爆ドームを訪ねているが、長崎を訪問する人は少ない。
広島に原爆を落としたアメリカの爆撃機B29の名は「エノラ・ゲイ」である。日本人なら多くの人が知っている名前だ。では、長崎に原爆を落とした爆撃機の名前を私たちは答えられるだろうか。そこに、長崎が原爆とのつながりが薄いと思われる背景がある。
爆撃機の名前は、「ボックスカー」。「ボックスカー」は原爆搭載機として、当初は福岡県の小倉を目標としてテニアン島を発進した。しかし、爆撃進入に3回失敗したことで、第二目標である長崎市に進路が変更された。
「ボックスカー」の予備タンクの燃料ポンプは故障し、燃料にも余裕がなかった。だから長崎への爆撃は一回しかチャンスがなかった。結果、雲の切れ目から見えた長崎・浦上に原爆を落とした。その地は、本来の投下予定地点より北へ3.4kmの地点だった。この攻撃で約7万4千人が死亡し、建物の約36%が全焼または全半壊した。
本来の投下目標は、人口密集市街地の眼鏡橋が架かる中島川付近だった。長崎市は、市街地と浦上地区は山でさえぎられているから、市街地の被害は少なかった。
高瀬は取材を続ける。
市長の諮問機関であった原爆資料保存院会は「保存」という結論を出していたし、市長も同意していたが、ある時からその「保存」の考えが「撤去」へ180度転換する。
市長が「撤去」の姿勢を鮮明にしたあと、市議会で廃墟の保存を強く訴えた岩口議員の言葉がある。
「これを単に長崎の観光地というけちな考えで残そうとするのではなく、全人類の二十世紀の十字架として、キリストのあの偶像が犠牲のシンボルであるならば──二千年前の犠牲のシンボルであるならば、私はこの廃墟の瓦壁は二十世紀の戦争の愚かさを表彰する犠牲の瓦壁である、十字架であるとそういう意味において、唯物的な考えから申せば、市長がさきほども申されましたように、そう大して残すほどのことではありませんが。しかし、精神的に長崎を訪れる各国の人たちが、一瞬襟を正して原爆の過去を思うその峻厳な気持を尊ぶ原爆の資料だと信じております」
しかし、その願いは果たされなかった。
高瀬は取材していく中で、この他にも教会を司る当時の山口司教が廃墟の保存を望まなかった、という事実に突き当たる。高瀬はこの裏に、原爆の遺産保存を望まないアメリカの戦略があると考えた。
市長がまだ天主堂の保存に前向きだった1955年に、長崎市にアメリカ・ミネソタ州セントポール市から姉妹都市提携の話しが持ち込まれた。これは、戦後荒廃している日本では稀なことだった。
翌年、市長は渡米してセントポール市だけでなく全米各地を40日間かけて回った。その中に、国務省関係者などの歓迎があったという。往復の飛行機代は負担したらしいが、その他の経費はアメリカが用意したと考えられる。米国から帰国した市長は、渡米前とは明らかに態度が変わっていた。
1958年の議会で、「浦上天主堂の残骸が原爆の悲惨を物語る資料としては適切にあらずと。平和を守るために在置する必要はないと、これが私の考え方でございます」と市長は答弁する。
カトリック教会長崎司教区代表の山口司教も、教会再建の資金集めのために米国を訪問していた。
山口司教は「天主堂はともかく同じ場所に再建したい(廃墟は破棄すべき)」とアメリカの新聞に語っている。
高瀬は、アメリカでの山口司教の発言や教会関係者への取材から、廃墟を撤去することが、アメリカ側の資金提供の条件であったらしいことを浮かび上がらせていく。
浦上天主堂の歴史を、ここで再確認しておく必要がある。
1864年(元治元年)、長崎の南山手フランス居留地内にフランスの資金で大浦天主堂が建てられた。
1865年(慶応元年)3月、主任司祭であったベルナール・プティジャン神父のところに、 浦上村住民数名が訪れた。当時52歳の女性、イザベリナと呼ばれたゆりは神父に近づき、「ワレラノムネ アナタノムネトオナジ(私たちはキリスト教徒です)」とささやいた。そして、聖母マリアの像を見て祈りをささげた。彼らは、キリスト教の典礼暦を元に「カナシミセツ(四旬節)」を守る生活をおくっていた。これが、世界を驚かせた400年の鎖国の中でも息づいていた「日本のキリスト信徒の発見」である。
五島、天草、筑後などに暮らすキリシタンの指導者も、神父の元をひそかに訪れた。神父から指導を受けた隠れキリシタンたちは、村に帰り神父の教えを広めた。しかしその後、その存在が知られるようになり彼らは弾圧され投獄されていく。
1873年(明治6年)、日本政府はキリスト教禁制を撤廃した。弾圧された信徒は釈放されたが、3394名のうち662名が命を落としていた。
生き残った信徒たちは、1895年(明治28年)浦上の地に天主堂の再建を始めた。1925年(大正14年)まで30年もかけて、浦上川の峡谷に25メートルの高さを誇る東洋一の教会、聖マリア教会を建立した。
この大聖堂をアメリカにより破壊された長崎は、アメリカの都市と姉妹都市となった。これを推進したのが、日本でのパブリック・ディプロマシーを担当していた米国広報・文化交流庁(USIA=United States Information Agency)だった。
米国広報・文化交流庁のパブリック・ディプロマシーの定義は、「外国の市民を理解し、情報を与え、影響を与えること、米国の市民や組織との海外のカウンターパートナーとの対話を促進することを通じて米国の国益と安全保障を高めようとする」とある。
しかし、アメリカ国内でのパブリック・ディプロマシーは法律で禁止されていた。
『パブリック・ディプロマシー「世論の時代」の外交戦略 』(PHP研究所)によれば、1948年にアメリカ議会で議決されたスミス・ムント法(連邦情報・教育交流法)は、アメリカ国外でのパブリック・ディプロマシーは許されるが、アメリカ国内で自国民に対しそれを行うことは禁止された。
連邦政府の国際文化交流機関が自らの活動を国民に広報することは、自国民に対する説明責任を果たす行為とはみなされず、税金を使った世論操作と理解されたからだ。
アメリカの公文書館には関係資料が多く残されている。GHQ(連合国軍総司令部)は、日本人の原爆への反感を抑えようと新聞などでの原爆記事を禁止した。
長崎の原爆をテーマにした「長崎の鐘」はベストセラーになったが、被爆から2年後の1946年に完成していた。1949年1月『マニラの悲劇』をその本の巻末に掲載することを条件に、GHQから日比谷出版社からの出版が許された。
『マニラの悲劇』は、アメリカが調査した日本軍のマニラ残虐行為の証言集である。本の巻末といいながら、『長崎の鐘』は160ページ、『マニラの悲劇』159ページだった。
そこに、戦争の被害者と加害者の関係は五分五分であるとイメージさせる、パブリック・ディプロマシーがあったのではないだろうかと想像できる。
歴史の中には、「正しい見方・考え方」を隠匿されたために、知られていない事実が多くある。しかし、ジャーナリストたちの取材で、隠された過去を知ることで、また新しい真実が見えてくる。
長崎の原爆問題には、差別の歴史も関係していた。
原爆投下時の浦上には、1万2千人のカトリック信徒が暮らしていたが、8千5百人が命を落とした。天主堂から約1キロ南には、被差別部落民1千3百人が暮らしていた。ここでも430人が亡くなった。
長崎市街地から離れているこの地では、江戸時代のキリスト禁教令以後、部落民はキリシタン監視の役割を担わされた。幕末の「浦上四番崩れ」では、ここの部落民が信徒弾圧の先頭になった。この地の者は、歴史の中で差別を受けていたが、差別された者同士が、互いに憎しみ敵対することを繰り返していた。
井上光晴の『地の群れ』(河出文庫)は、こうした差別に肉薄する作品である。井上は、被爆者、部落民、在日朝鮮人など差別される者同士が互いを差別しあう日本社会の裏側を書いた。
原爆投下後に、それらの差別意識がまた新たな差別を生むこととなった。原爆被災者を差別する空気が生まれたからだ。
長崎市民の一部には、「お諏訪さん(諏訪神社)が市街地を守ってくれた。浦上に原爆が落ちたのは、耶蘇(やそ)(キリスト信者)への天罰だ」と公然と話す者もいた。そこに、江戸時代から続いてきたキリシタン迫害での常識化された差別意識があった。
西洋のキリスト教と日本の神道の宗教的異なり、そして、部落差別の問題は、時代が変わってもなかなか氷塊はしない。長崎の反原爆運動が広島ほどの熱気を帯びないのも、こうした背景があることは否定できない事実であろう。
世界のキリスト教の信徒は、長崎の天主堂が原爆で破壊されたことを、聖母被昇天の大祝日の告解準備のために、西田三郎主任司祭と玉屋房吉助任司祭が告解場にいたことを、二人の神父と数十人の信者が原爆で即死したことをあまり知らない。
世界のキリスト教徒は地球の総人口の3分の1、約20億人もいる。浦上のクリスチャンたちが原爆の悲劇を伝えることは、世界に大きな影響を与えるはずだが、それをしない、させない歴史の重みがそこにある。
アメリカのオバマ大統領は、「米国は、核兵器を使った世界で唯一の核大国として行動する道義的な責務がある」と語り核の無い世界を標榜した。
核兵器の廃絶を訴えるオバマは、広島、長崎の被爆地訪問に当初から強い関心を示し、09年11月の初訪日の際にも訪問案が浮上したが実現しなかった。オバマは「広島と長崎を将来訪れることができたら非常に名誉なこと。私には非常に意味があることだ」と日米首脳会談後の会見で語った。
だが、米国内には「原爆投下は戦争終結のためやむを得なかった」との声も根強い。大統領の被爆地訪問は退役軍人など世論からの激しい反発が予想される。原爆投下を必然といいながら、その地を訪れることに反発をするその人たちの心の中には、原爆投下に対して善と悪のふたつの心があることが想像できる。原爆投下が真の正当な行為と信じるなら、戦後60年を過ぎているいま、その原爆の地に佇むことができるからだ。
広島の原爆ドームを個人的に訪れるアメリカ人は多い。そこに、原爆投下を正当とする世論と個人のギャップがあると思うのは、私だけではあるまい。
オバマが広島や長崎に訪ねるとき、「フットボール」という名前の鞄が同行する。「フットボール」には、大統領の緊急指令や作戦計画が入っている。この鞄から、核爆弾の発射命令が出される。オバマが、広島や長崎を訪ねる時、核の発射ボタンが共に来る。被爆の地に核のボタンが同行する歴史の皮肉がここにある。
この本では何度も、「原因と『結果』の因果の法則」という言葉が出てくる。その「結果」に、宗教、政治、差別、パブリック・ディプロマシーの影響があるとき、その情報をどのように咀嚼するかは私たちの責任となる。
浦上天主堂へのパブリック・ディプロマシーをあらためて検証するとこうなる。
アメリカは「アジア最大のキリスト寺院・浦上天主堂の再建を手伝った」と加害者の立場を離れて善意の主張ができる。しかし、被害者から見れば、「アジア最大のキリスト教寺院を原爆で破壊した愚かな行為を、アメリカは歴史から抹殺した」となる。
そこから、当時のアメリカ政府が、浦上天主堂を原爆で破壊してしまったことに苦悩していた状況が想像できる。
歴史は、勝者や権力者を中心に記録されていく。偽りの歴史の中にも、「原因と結果の因果の法則」がやっぱりあるのだ。
長崎市のホームページ内に、セントポール市との姉妹都市「締結のきっかけ」という記述がある。
「ニューヨークの日本国連協会代表が、原爆被災から復興し平和都市への道を歩んでいた長崎市とセントポール市の提携を斡旋。その後国連事務局が両市に勧誘状を出した。日米初の姉妹都市提携である」と、
それは簡単に書かれている。
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